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2017年9月15日

NMT inc. インタビュー特集 第30回 土屋ひかる

土屋ひかるインタビュー
所属モデルをより深く知って頂く事を目的としたインタビュー特集。
第三十回目は、土屋ひかる(つちやひかる)のインタビューをお届け致します。

「だから私はその上を目指す」 土屋ひかる

「ヒロイン」ときいて、どんな人をイメージするだろう。
可憐なるお姫様のような人か。
それとも、頼りになりそうなスーパーガールのイメージだろうか。
辞書によれば、ヒロインとは「気高く、勇気ある女性」の事を指すようだ。

ファッションモデル、土屋ひかる。
私はインタビューで土屋に会った瞬間、彼女のオーラに圧倒された。
オーラがどのようなものかを表現する事は難しい。
しかし、物語で言えば、土屋はヒロイン役ではないかと感じた。
果たして、どんな事を答えてくれるのだろう。
私は期待してインタビューに望んだ。

土屋は、笑いながら言った。
「実は私、とても人見知りだったんです」

土屋は千葉の九十九里で生まれ育った。
小学生の頃から人見知りが激しかった土屋。
とりわけ苦手だったのは、写真を撮られる事だった。
どうにかして、その人見知りを克服したい。
「苦手な事を避け続けても、どこかでまた壁にぶち当たるでしょ。だから、その時に対処しておく、というのが私のポリシーです」
広大な九十九里の環境が土屋をそんな風に育てたのだろうか。

土屋は人見知りを克服するべく、高校生の時、好きだったファッション誌のモデルに応募してみた。
見事採用されたものの、カメラを向けられると、やはり緊張してしまった。
両親には、モデルは趣味程度にとどめておけば、と言われた。
しかし、土屋は不得意なものにチャレンジする事で頭が一杯だった。
普通は、得意な事をやりたがるだろう。
しかし、土屋は逆だった。
苦手だからこそ、何度も挑戦したかったのだ。
それは困難に立ち向かうスーパーガールの姿に重なる。
そんな中、事務所に所属するチャンスに恵まれた。
以前に比べて苦手意識はなくなったものの、自信のなさが写真に映ってしまう。
土屋もその事をよく分かっていた。

そんな土屋に、転機が訪れた。
ミス・ユニバース 日本大会に出場した時の事だ。
数週間の「ビューティーキャンプ」と言われる合宿で、厳しい訓練が課せられた。
ライバル達も強敵ばかりだった。
どうやったら、コンディションをニュートラルに保てるか。
そして、どうしたら誰よりもアピールできるのか。
人が見ていない所でも、土屋はトレーニングを繰り返した。

結果は、第3位だった。
勿論、日本代表になりたかった。
しかし、土屋は当時を振り返ってこう言った。
「3位は私にとってふさわしかったと思います。だって、まだ上を目指せるって事じゃないですか」
3位という順位には、そんな意味がある、と土屋は考えたのだ。

その後、NMT inc.に所属する事が決まった。
厳しいレッスンが続く日々。
その甲斐あって、土屋は格段に成長を遂げた。
緊張せず、人目も気にせず、自分を表現できるようになった。

そして、土屋にはもう一つ、自分を強くしたきっかけがある。
それは、本場で学んだ「タヒチアンダンス」だ。
現地でのレッスンは非常に厳しい。
だからこそ、自らを奮いたたせ、あえて学びに行った。
タヒチアンダンスに要求される、独特のリズム感を習得するのは難しい。
躍起になって練習している土屋を見た現地の先生はこう言った。
「うまい下手ではない。とにかく楽しめばいい」

そして、土屋は気がついた。
「表現する事に正解はないんですよね」
それは、モデルの仕事と共通する事だった。
失敗を重ねながらも、楽しさを実感しながら、何度でも挑戦する。
挑戦する限り、どこまでも上って行ける、と土屋は言う。

「今は、自分にできる事を全力で取り組むだけです」
そう言い切る土屋の力強さ。
それは、逆境を自らに課して乗り越えたヒロインならではの言葉だ。
土屋は時折、自分を奮い立たせる為に、鏡の前で仁王立ちをするという。
それをヒロインと呼ばずに何と呼ぶだろう。
見る者を惹きつけるエネルギーは、土屋の逆境に飛び込むスタンスに隠されていた。
ヒロインのオーラは、そうした勇気ある行動から生み出されるものなのだ。
私は土屋のインタビューを通じてその事を学んだ。
☆土屋ひかる プロフィール☆

(執筆)加藤陽太郎 クリエイティブディレクター。1984年生まれ。早稲田大学大学院国際情報通信研究科修了後、日本郵便株式会社本社勤務を経て独立。
メディア関連企業の戦略策定や企画のプロデュースをはじめ、執筆や写真撮影によるコンテンツ制作を手がけている。